いつも満足するまで遊んでいました

 私は、9歳の夏(昭和33年)まで、北陸の県庁所在地、駅から約1㎞の鄙(ひな)びたところで過ごしました。大空襲の復興後3年足らずで大地震に遭い、しかし、その4年後に再復興を遂げた故郷は、羽二重(はぶたえ)(絹織物)で有名、昔から、働く女性の多いところです。
 野原を駆け巡っていたあの頃に、思いを馳せてみました。
 小川でザリガニの身を餌にして釣った小鮒の浮き袋を集めていたこと、どぶ川に落ち、自力では粘土質の川底から這い出ることができなかったこと、大きな土管がいくつもある空き地で鬼ごっこをしたこと、直径30㎝ほどの壷のなかから果肉の腐ったくるみを出し、石で割って食べたこと、路地裏ではゴム跳び、ケンパ、鬼ごっこ、パッシン(めんこ)、家の中では着せ替え人形・・・・・
 夏、庭の周囲に植えたとうきびを七輪で焼いて食べたこと、土の中から出てきたカブト虫の幼虫をにわとりが美味しそうに啄(ついば)んでいたこと、自転車で、遠くの友だちの家まで遊びに行き、友の母の炭火仕様のアイロンがけを見て驚いたこと・・・・・
 妹や弟のいた私は手伝いもよくしましたが、いつも満足のいくまで遊んでいました。遊びはまさに生活でした。暗くなるまでに帰宅をという意味でしょうか?「人さらい」の話を聞かされてもいました。
 「必ず、宿題をしてから遊びに行った。」これは大人になって母から聞いたことです。遊びに行きたいので、宿題は早くすませたのでしょう。小学校では、15分の通学路を一人で登校、朝7時過ぎから級友と校庭を走りまわっていました。車の珍しい時代、両親は子どもたちを放牧していたのですね。
 なぜ、このようなことを思い出したのかは分かりませんが、これらのことが、私の血肉となり、生き方に影響を与えたことは間違いないと思います。
 

白ばら学園第2こどもの家(上尾市) 副園長 日比曉美